Creative: Toyooka Bags

Creative: Toyooka Bags

豊岡鞄:みんなで動けば、 鞄の未来が動き出す

豊岡鞄みんなで動けば、
鞄の未来が動き出す

隆盛を誇った、千年の歴史をもつ日本一の鞄の産地。
しかし時代は、そんな名産地に容赦なく厳しい風を送った。
向かい風に立ち向かった伝統の矜持が、花開こうとしている。

2008年発行 「日本の革 1号」より

兵庫県、豊岡市。日本で作られる鞄の約7割がこの地で生み出されることをご存知だろうか?千年の歴史をもつ豊岡の鞄。柳行李にはじまる鞄作りは時流とともに成長を遂げ、日本一の鞄の産地となる。「高度成長の頃は、豊岡の2割が鞄作りの人。盛況でしたね。でもずっと右肩とはいかない。安価な海外品とバブル崩壊がやってくると170社あった会社は60社に。危機感がつのりました」
と語るは、丁寧な箱物を作り続けるマスミ鞄嚢(ほうのう)の植村氏。3代つづく老舗をまとめる彼には、もうひとつの顔がある。「豊岡鞄」地域ブランド委員会・委員長。はて、地域ブラ ンドとは何だろう。
「OEMを柱にしてきた豊岡は、あまり名前を知られていません。景気や時勢によって発注が減れば、ダメージは深刻です。これでは未来が見えてこない。そんなときに地域と商品をセットで商標にできる法改正の話があった。プロジェクトを立ち上げ、豊岡全体として未来へつながる鞄作りが続けられるよう、皆で話し合いの日々がはじまりました」
“豊岡の鞄”をパブリックなブランドにするため、コンセプトや運用方針について激論が続く、日々。心労も少なくない日々だ。

日本で唯一の、鞄団地。鞄づくりに関わる会社が一同に会し、力を合わせて品質を求めるものづくりに励んでいる。地域ブランドのバリューを高める努力が日々続く。

「できるだけ多くの会社に参加してもらいたい。でも、審査基準は厳しくなくてはならない。ものづくりの品質を計る基準は、厳しくなくては意味をなさないんです。ワゴンセールに乗せられるようでは、名前自体が廃れてしまう。当然、豊岡の工房でも基準に満たなければ参加できないわけです。でも、みんなの想いはひとつでした。豊岡鞄をみんなで盛り立てていくしかない。もっと知ってもらって、使ってもらって、喜んでもらうしかない。僕らの未来はそこにあるんだと信じました」
束ねられた想いが、国に届く。“豊岡鞄”は兵庫県で第1号の地域ブランドとして認定され、これまでの流通と違うカタチで広まる素地を得た。豊岡鞄のブランドロゴが付く製品は、厳格な品質基準をクリアしたもののみ。磨き抜かれた匠の技が、ブランドを通じて新たな出会いを生みはじめる。千年の伝統が、新しい千年のスタートラインにいる。60年のキャリアを持つ職人さんは言う。
「鞄づくりは奥が深すぎて、毎日が日進月歩。40年経たないとわからな い部分もあるから面白いですよ。若手は夢をもって、知恵を出し続けてほしい。頭の中に蓄えていくのは荷物にはなりませんから」
と、破顔一笑した彼、実は植村氏の父で先代社長。それでも“ビジネスに走らずに信念をもってやることが大事”と語る彼の背中に、伝統に裏打ちされた未来が見えた。

老いも若きも手を動かせばすべてが現場の活気となる。

豊岡鞄」のブランドタグを付けられるのは、約60社ある豊岡でも現在8社のみ。厳しい基準を超えるべく切磋琢磨が続く。www.toyooka-kaban.jpは要チェックだ。

万葉の時代に生まれた杞柳細工は、柳行李として成長し明治時代パリ万博に出展されるほどとなる。その伝統が鞄産業へと花開く。大戦前のミシンも現役バリバリ。

ストリートには展示やイベントも行なうカバンステーションがあり、上記の先代植村氏が現役で修理に腕をふるう、かばん工房がある。人々の志が、街を支えている。

トートバッグが買える鞄の自動販売機や、ショーウィンドウに鞄が並ぶカバンストリートなど、伝統の特産たる鞄を活かして街づくりも盛り上がる豊岡ダウンタウン。